2013年10月10日木曜日

「大体」とか「適当」とか

「適当」という言葉の本当の意味は適切に当てはめるという事ですが、日常生活の中では「大体」と同じような意味で使うことが多いように感じます。
「適当に片付けておいて」とか「適当に買ってきて」などというと、大雑把な意味合いを含んでいると感じるのではないでしょうか。

今回取り上げたいのは言葉の意味がどうこうではなく、この大雑把な部分です。

数学において関数の問題を解くときなどはグラフを書いてみることが近道な場合がよくあります。ですので設問に「グラフを書け」と言われていなくても迷っている生徒さんがいると必ずグラフを書くように指示します。しかしグラフを書くと言ってもそれほど正確なものは必要ありません。いってみればイメージを掴むための道具ですので致命的に違っていなければ良いのです。ですから「大体のグラフを書いてみて」とか「あまり正確じゃなくても適当でいいから」などという言い方をしてしまうことが良くあります。
こちらとしては厳密に正確なものを書くより簡単だろうと思って発する言葉なのですが、実際は「正確に書く」より「適当に書く」方が難しいことがあるようです。

ちょっと考えてみてください。
以前にこのことを講師同士で話していたときなのですが、こんなことを言っていました。
料理のレシピがあってその通りに作ろうとするのだけれど「塩少々」とか「胡椒適量」とか書いてあると困ってしまう。
そんなこと?、と思うかもしれませんがそう思ったあなたは料理が出来る人なのです。料理が出来る人にとっては「少々」が感覚的に分かりますが、本当に全く出来ない人にとっては1gなのか5gなのかひょっとしたら100gなのか全然見当がつかないのです。正確に量れるかは分かりませんがたとえ細かくても0.5gなどと具体的に言ってくれたほうがやりようは出てくるのです。

「適当」や「大体」という言葉からは大雑把な印象を受けますが、実のところは非常によく全体を理解した上でないと使えない言葉だったのです。

指導する際によく見落とされるのがこの点です。
全体像が分かっている者であれば適当にやってもポイントだけは押さえます。分かっているから適当に出来るのです。
分からない者にとっては、当然ポイントも分からないことがほとんどですので適当になど出来るはずがありません。
ですが指導者にとっては当たり前すぎる事なので本質の説明を省いて手順だけ説明してしまいます。
その結果、何となくそれっぽいものが出来上がります。もともと適当なのですからその場しのぎのことは簡単に出来ます。そして指導者は勝手に出来るようになったと勘違いするのです。
誰も幸せになれません。

「自分が出来ること」と「他人に教えられること」は決定的に違います。
指導者に必要なのは難解な問題がただ解けることよりももっと根っこの当たり前なことを当たり前とせず説明できる力だと考えます。
「適当にグラフを書く」、何のためにグラフを書くのか?何に注目するのか?何は省略してもいいのか?何には気をつけなければいけないのか?私はそれらの説明を大切にしています。そしてそれらが理解できると解くための道具のグラフが書けるようになるだけでなく、結局のところ問題自体が解けてしまうのです。

「適当」を説明するのが適当ではダメなのです。