2016年3月30日水曜日

当塾にマニュアルはありません!

「マニュアル人間になるな」などという言葉を聞いたことのある人は多くいると思いますが、マニュアルというものは悪いものなのでしょうか?
私は違うと思います。
過去にはバイトも含めて幾つかの仕事をしてきましたが、毎回はじめての時は何をしていいものやらサッパリ分かりません。まさに右も左も分からないという状態だと思います。業界の当たり前は決して一般の当たり前ではないのだから当然だと思うのですが、意外とそのことに気付いてもらえなくて上手く仕事ができず注意されるなんてこともよくあります。
こんなとき、マニュアルのしっかりしているところは仕事がしやすいです。はじめは意味も分からずマニュアルにしたがって仕事をします。そうすると取り敢えずの形はできてきます。そのうちにその意味が分かってきて自分なりの工夫や改善ができてきます。導入にマニュアルを使うことは効果的なのです。
ですが当塾にマニュアルはありません。

そもそも塾におけるマニュアルというのはどういう意味か?これには2つの意味があります。

1つ目は講師にとってのマニュアルです。
それはいわゆる指導マニュアルというやつです。大手学習塾ではそういったものもあるようですが、私が以前目にしたものはとても役に立つとは言えないものでした。一斉授業ならまだしも個別指導となると難しいようで、どこかには凄く良い物もあるのかも知れませんがまだ見たことはありません。
というのも個別指導では1人をしっかり見ます。しっかり見るとどの生徒さんもみんな違います。性格はもちろんのこと過去の学習状況、現在の意欲、家庭環境などなど同じ生徒さんはいません。そうなってくると教え方も当然違ってくる必要があります。みんな違うからマニュアル化することが難しいのです。
当塾でも学習における大枠の方針と理想はあります。ですがそれだけで指導できるものではありません。基本方針をベースに毎回1人ひとりに合わせたやり方をその都度考えていきます。なので同じ問題でも生徒さんによって解き方が違うなんてこともでてきます。
これは同じ学校で同じ学年の生徒さんでも同じ授業ができないという事で、講師にとっては大変です。ですが個別指導の価値はここにあると信じています。まあ、そもそも同じことで済むのならば個別指導なんていりませんから。
ちなみに当塾に指導マニュアルはありませんが、指導方法の意見交換は毎日のようにしています。授業前や後にどんな状況でどんな方法を取ったのか、これからどうするのかを話し合います。白熱すると帰れなくなってしまうのが悩みどころです。
いつの日にかは私たちが得た知見をまさにマニュアルとしてまとめられたら良いな、と思いますが道は遠そうです。

次に2つ目は生徒さんにとってのマニュアルです。
これは参考書や問題集などの教材を指します。もし完璧な教材があれば塾になんか行かずそれを自分でやっていればいいのですが、前述の通り1人ひとりが違うのでピッタリ合うものにはまず出会えません。
当塾では教材を指導するための道具と考えています。なのでこれも生徒さんによって違うものを使ってもらいます。どれを使ってもらうか選ぶのも大切な仕事なのですが、なかなか思い描くものがなく毎回苦労します。
理想の教材も作ってみたいと思うのですが、やはり道は遠いです。


マニュアルはあると便利です。ですが複雑な内容において適切なそれを用意することはとても困難です。
文科省は学習指導要領を定めています。ですが全国の学校がどこも全く同じ指導をしているかというと違います。それで当然なのです。
決まりきったことをやるのではなく、常に良い方法を模索することこそ指導者の仕事だと考えます。
(などと偉そうに締めましたが、これは自分自身への戒めの言葉でした。つまり今回も独り言・・・)

2016年3月23日水曜日

私の友達 笠山君(仮名)編

前回友達の話をしたので、ついでに1人ご紹介です。

笠山君(仮名)と私は小学校からなのでもう数十年の付き合いになります。高校、大学、社会人と違うところだったのですが意外とちょこちょこ会っていた気がします。友達5人と福井から車で屋久島に行くなんて大学生らしい遊びもしましたが、それよりただ会ってウダウダするようなことの方が多かった気が?
お互いに漫画好きなことや同じ塾に通っていてその先生(ヴァーチャルノートの先生です)を気に入っていたことは大きな共通点といえるかもしれませんが、それ以外で何がそんなに合うのか改めて考えるとよく分かりません。でもこういうのが気が合うって事なんですかね?
ときどき福井に帰省してくると合間に会いにきます。私の優先順位は極めて低めですがマメに顔を出してくれるのは有難いです。でも合間なので変な時間なこともしばしばで、夜遅くに会うことも。そんなときはよく足羽山のお墓に出かけます。本当だったら一緒に会いにいっただろう塾の先生のお墓がそこにあるからです。そこに先生が居るとは思いませんが、何となく会いにいきそこで数時間話し込んだりします。深夜の墓場は静かで暗くて星が綺麗です。先生も星が好きな人で塾が終わったあと一緒に夜空を見上げて難しく楽しい話をしてくれました。笠山君(仮名)と話し込むにはうってつけの場所なのです。

そんな変なところで気の合う笠山君(仮名)ですが、彼はいわゆるエリートです。
現在彼はお医者さんです。奥さんもお医者さんでもうすぐ3人目のお子さんが生まれる予定です。なんとも憎たらし…羨ましいことです。

そしてお医者さんになるぐらいですから当然勉強が出来ました。本人曰く天才型ではなく努力型なのだそうですが優秀なことには変わりないのでしょう。
ですが私は知っています。彼がとてつもなく運転が下手だったことを。

大学生の頃です。私より遅くに運転免許を取得した彼と早速ドライブに行こうということになりました。私もまだ初心者でしたが彼より早い時期に取得していたので少し先輩気分です。「どれ技量をみてやろうか」なんてふざけた気分で出かけたのですが、予想を超えていました。
あまりに下手すぎて、とてもじゃないですが怖くて乗っていられないので数百メートル走行後に運転手交代となりました。
それでも運転なんて慣れですから時間と共に上手くなるものだと思っていたら、なかなかならないのです。運転練習に付き合ったこともありますが、一度なんかはほぼ赤信号無視のタイミングで交差点を突っ切ったことが…
「おい!」と彼を見ると強張った顔で「止まれん…」と一言だけ。直ぐに運転手交代です。危うく殺されかけました。
「一生車に若葉マークを付けておきたい」と当時もらしていました。

そんな笠山君(仮名)ですが長い月日が流れて今では普通に運転しております。しかしあんなに運転の上達が遅い人は他に知りません。

ここから学んだ教訓が2つ。
1つは、頭が良いからって何でも出来るわけではない。人には向き不向きがあるのです。逆に言えば勉強が不得意でも他人より優れた才能は他にあるかも知れないのです。
2つ目に、どんなに下手でも繰り返していればいつかは出来るようになる。あの下手だった彼が今では家族を乗せて遠方から帰郷します。昔のままであったなら自殺行為ですが、今では普通のことです。今できないからといって諦めず、練習し続ければいつかできる日はくるようです。

この話はときどき生徒さんにしています。不得意なことを悲観するなと励ましたり、繰り返し練習することが大切だと日々の学習の大切さを説くのに役立っております。

彼とのエピソードはまだまだ尽きませんが、ひとまずこんなところで。

ちなみに笠山君(仮名)ですが、もう直ぐ福井に家族で帰ってきます。
地元に友達の少ない私としては遊び相手が戻ってくることを楽しみにしています。年齢を重ねて色々と昔とは違うこともありますが、相変わらずウダウダやれたら楽しいです。

2016年3月17日木曜日

友達がもたらす功罪?

前回、友達の話をしていたらちょっと思い出すことがあったので書いてみます。


多くはありませんがいくらか私にも親しい友達はいます。その中でも一番よく一緒に飲み明かした友達が3人(もう1人いるのですが音信普通になりがちなので今回は割愛)います。
最近はみんな忙しく集まる機会はほとんどありませんが、みんなでバカやったことも数知れず。気楽に付き合える良い奴らです。ですがこの集まり、他人から見るとちょっと不思議なのだそうです。

どう不思議なのかと言うと私以外の3人がとても優秀だということです。社会人時代に出来た友達には「なぜその中にお前が入っているの?」と聞かれる始末。でも言われてみればそんな気がしないわけでもありません。

その3人はそれぞれ東大、京大、国立大医学部の出身です。そしてそれぞれ検事、SE、医者になりました。
ん~、学歴やらに無頓着の私でも改めてみると確かに凄いと感じます。
そしてその中で私だけが普通の人、変といえば変かも?

彼らとは小学校からの付き合いなのであまりそういうことは意識してきませんでした。加えて彼らがそういったことで私を差別したり、自慢したりした記憶もありません。だから私には何の違和感もありませんし、一緒にいて楽しい仲間です。楽しいのだからそれで充分なのですが、それは他人には見えないものなので不思議に思うのなのですかね?

たぶんお互いが楽しいから続いているのだと思いますがこの友達関係、よくよく考えてみると功罪があったようにも思います。
功の部分、学歴や地位に怯えない、気にしない。罪の部分、劣等感。

もともと両親が学歴や地位に無頓着な人たちだったという事もありますが、この友達が一つも威張らなかったというのも大きな影響のように思います。
子供の頃から偉そうにされたことはありません。それでも優秀な奴らなのでしょう、何でもないときに凄さを感じることはありました。
そういった経験からか私は「凄い人は凄そうにしない(偉い人は偉そうにしない)」と思うようになっていました。なので偉そうにしている人を見ると「小者?」と思ってしまいます。私の中でこれは良かった事だと思います。

ただ、何でもないときに感じる凄さというものは自分の駄目さを感じるときでもあります。同じように遊んでいた友達が急に「勝てない相手」に見える瞬間を何度も経験すると自分がとても駄目な人間に思えてきます。実際に大物ではないのだから仕方が無いのですが、そこから生まれたのは劣等感のようです。
「劣等感」と言いましたがその正体に気づくのには時間が掛かりました。偉そうにされなかったので鈍い私は直接優劣として感じるのではなく、何となく自分には追いつけないような敗北感というか身の程を知るというか曖昧なモヤモヤがあるだけで、それが明確に何なのか分からなかったのです。でもそのモヤモヤはちょこちょこ私の邪魔をします。何か分からないから余計に扱いづらいモノでした。それが劣等感なのだと気づいたときは変な話ですが正体が分かって安心したように記憶しています。
身の程を知るのは大切ですが、萎縮しているばかりでは仕方ありません。これが悪かったことでしょうか。

しかしそれも考えようですかね。劣等感のおかげであまり他人に偉そうにすることが出来ません。だって恥ずかしいですから。「偉くない人ほど偉そうにする」と私は思っているので、私なんかが一番危ないタイプなわけです。たまに失敗もしますが、劣等感は良いストッパーかも知れません。

でもまあ本当のところは功罪など考えず、友達関係は楽しいということが一番でいいように思います。
高めあえる仲間、利害関係のある仲間、色々あるのでしょうが、難しい事いわず気楽にいられる場所であっていいと思うのです。
そういう意味で色々ありますが、私は良い友達を持っているのでしょう。

そんなこんなで、結局のところどうオチをつけるかと言うと
「友達っていいね!」
という綺麗な(?)結論に無理矢理しておきます。
毎度与太話に付き合ってくれる方、いたらありがとうございます。

2016年3月12日土曜日

受験が終われば別れの季節?

当塾における今年の受験は無事に終わりを告げました。少人数の塾なので結果については触れないことにしますが、まあ無事に終わったのです。塾としては年末よりも1年が終わったと感じるのがこの時期です。
そして受験が終わるともう残すは卒業式だけです。卒業式だけというと言い過ぎですが、やはり大きなイベントなので意識してしまいます。
そしてそれは期待と不安の時期でもあると思います。

生徒さんと話をしていると色々な期待や不安があるようですが、友達についての不安を口にする子も少なくはありません。卒業したら離れ離れと感じているのかも知れません。そして思い出してみると私の不安はその点が大きかったように思います。

もともと前に出て行くタイプではない私は友達を積極的に増やしていくことが苦手でした。そのため自慢ではありませんが友達の数はあまり多くありません。その貴重な友達が卒業と共に失われていくような不安を感じていました。

今思えば私の世界は狭かったのだと思います。意識していたわけではないですが、中高生ぐらいの頃の私にとって世界は学校までで終わっていたように思います。だから違う学校になるということは世界が分かれてしまうことと同じで、関わりあうことはなくなるような不安を持っていたのでしょう。

でも現実は違いました。

多くはありませんが親しい友達はいくらかいます。そして不思議なことに一番親しく付き合っている友達の多くは小中学校からの友達です。

高校、大学、就職とその多くが別々の地域だったのですが不思議と未だに続いています。今も福井在住は少なくて会う機会などほとんどないのですが帰省した際には声がかかり、いい歳になったというのに昔のように朝まで飲み明すなんてバカな事をすることも。

どうも私の考えていた別世界は思いのほか近くて、ちょっと手を伸ばすだけで直ぐに届く距離だったようです。


春は別れの季節、なんてことも言いますがそんなに心配しなくて大丈夫です。確かに「今」という状況は変わってしまいますが、人と人の今生の別れなんてそうそうないものです。
世界は広がるだけで分かれたりはしないようです。少し世界が広がる春、少しいといわず自分の力で思いっ切り広げちゃってください。そして期待していきましょう!
(なんて偉そうに言っていますが、私の世界はまだそんなに広くないような?頑張らねば。)

2016年3月3日木曜日

警告表示の不思議

最近はクレームを恐れてか様々な場面で過剰な警告表示がされているように思います。
粘土に「これは食べ物ではありません」とか、刃物に「指を切らないように注意してください」とか、街頭インタビューに「個人の感想です」とか要るのか要らないのか分からない不思議なものが多くあります。
色々と面白いものはありますが、中でも特に面白かったが昔アルバイトしていたピザ屋さんで見たものです。

そこでは大量の小麦粉を使って生地を作る作業がありました。まずは大きな容器に入れて機械でこねるます。それを後から小分けに手で成型します。
小麦粉は1回に1袋10kgの業務用を使います。毎回重たい袋を抱えてこぼさない様に入れるのは少し大変でした。業務用の素っ気ないパッケージに意識を留めることもなく作業していたのですが、あるとき中央に書かれた文字に気づいてしまいました。
そこには
「この製品には小麦粉が含まれている場合があります」
という警告表示が・・・。

ハンバーグとかカレーとか加工食品に書かれているなら理解できます。私のような料理オンチには何で出来ているか分からない物も多くありますから。でもこれは前述の通り中身全部が小麦粉です。なのにも係わらず小麦粉の含有を可能性レベルで表現した警告は不似合いでしょう?だってこの表現だと「基本的に小麦粉は入っていないけど稀に含まれることがあるので注意してね」に感じませんか?

アレルギーの問題があるので本来この表示は大切なものです。だからこそいかがなものかと思います。
でもまあこれで実害を受ける人はいなさそうなので面白かったで良いんですけどね。

私の国語力も自慢できるほどのものではないので笑われないよう気をつけます。