2016年12月30日金曜日

本年もありがとうございました。

いよいよ今年も終わります。
当塾は今日が仕事納めです。みんな今年もよく頑張ったと思います。

世の中には大晦日や元日も塾に行って勉強している子もいますが、当塾は一応お休みです。
センター試験も間近ですから休みなんて無い!という意見ももっともですが、元日ぐらい少し家族とゆっくりしてもいいのではないかと私なんかは思います。

まあ、何はともあれ明後日から新年です。何が変わるわけではないですが、こういうことを機会に気持ちを引き締めるのもいいと思います。

ということで、気を引き締めていきますので来年も宜しくお願いします。

2016年12月10日土曜日

先を見据えた指導を

調子に乗って前回に引き続きちょっと真面目な勉強の話です。
前回の最後に書きましたが、「勉強は先を見据えた指導をするべきだ」という話の補足です。

私は学生時代に学んでいるとき「何故そんなことをするのか?」といった類の疑問を持つことがしばしばありました。でも質問するほどの意欲もなく「出来るんだからいいか」と勝手に納得して追及しないこともしばしばでした。もしかしたら私がただ聞いていなかっただけかもしれませんが、やり方だけ覚えて意味は考えないなんてことはありました。
ただ、学習が進んでいくとある日突然、以前かすかに持った疑問が解消されるときが出てくるのです。

例えば「水の電気分解」です。
中学時代には水に電気を通しやすくするため水酸化ナトリウムを混ぜると習います。でも、そんなもの混ぜてしまったら水ではなく水溶液になってしまい、実験の中身が変わってしまうのではないか?なんて思いました。しかし、その疑問は解消されること無く「そんなもの」と思い時は流れます。
ところが高校生になって化学を習っていたとき、その疑問は突然解消されました。水酸化ナトリウムを溶かした水の電気分解が化学反応式で示されたのです。ちょっと感動でした。

上記の例では中学生が理解するには少し難しい内容だから割愛されたのだと思いますが、私としては分からなくても教えてほしかったと思いました。

学習は年齢に応じて段階的にされていくものだという考え方は分からないではありません。ですが、だからこそ先に繋がる指導が必要だと考えます。

前回の例ではありますが、数学において関数は大事な分野です。中学では2次関数のさわりまでで終わってしまいますが、高校になれば様々な関数を習い、微分積分にも繋がってきます。
生徒さんたちにはどう繋がるかなんて分からないのですから、指導者が繋がる指導をしなければいけないと考えます。
その場の問題がただ解けるだけのやり方を教えて終わりではあまりにも寂しいです。
どこまで出来るかは状況によりけりですが、少なくとも指導者はそのことを頭においておくべきだと考えます。

(前回と今回の記事だけ見てもらえれば真面目な塾のブログに見えなくもない?)

2016年11月23日水曜日

一次関数の「値」と「増加量」について(解けるだけではダメ!)

たまには真面目な勉強の話を少し。
中学2年生で習う「1次関数」ですが、これはかなり大事な分野です。
関数としては中学1年生で比例・反比例を習いますが、あくまで関数のプロローグに過ぎず本番は1次関数からだと思っています。
ですから当塾ではただ解けるのではなく、きちんとした理解を大事にしています。

大事な事は多々ありますが、きちんと理解してほしいことの1つに「値」と「増加量」の違いがあります。
どういうことかと言うと、1次関数は y=ax+b(a,b:定数) と表されますが、x,yに代入していいのは「値」だけだということです。
生徒さんを見ていてよくあるのが「値」も「増加量」も区別無く代入するという姿です。

例えばyの増加量を求めるときに、式から ax の部分だけ抜き出してxの増加量をxに代入するのです。実際、これで正解は出ます。ただ、本来の考え方とは違います。
正しくやるならば別の公式である a×Δx=Δy のΔxにxの増加量を代入しなければいけません。
結果は同じように見えますが、中身は大違いです。
乱暴な言い方になりますが「値」というのは「位置」であり、「増加量」というのは「長さ」なのです。この区別の無いまま関数を学習していくことはとても危険だと考えています。

単純にその瞬間のことだけ考えると上記の違いは無視しておいた方が教える側としては楽です。ですが勉強は先々に繋がるものであってほしいと私は思っています。
中学2年生の生徒さんには先にどんな学習の広がりがあるのかまだ分かりません。ですから少しばかり(?)先を生きている私たちはそれを見据えた指導をすることが大切だと考えます。

(まあ、全部が全部は上手くいきませんけどね)

2016年11月11日金曜日

落ち込むのは本能?

以前読んだ記事にこんなものがありました。
京都の動物園にいるニシゴリラの話です。

タッチパネル上の数字を順番に押していくという勉強をしていて大きな成果を出しているとのことなのですが、ゴリラも間違いが続くと勉強に対する意欲をなくすのだそうです。そんなときは易しい問題に戻ったり、間違えてもご褒美をあげて励ましたりするそうです。

なんだか人間と同じですね。
というか人間がゴリラと同じなのでしょうか?

勉強は一人でやる部分が多いと思いますが、やはり誰かの助けはあった方がいいように感じます。塾では勉強を教えることが仕事ですが、実は一番気にしているのは生徒さんの状態です。
厳しく指導することが必要なときもありますが、それだけで成績が伸びるなら苦労しません。頑張ったら褒めて、落ち込んでいたらなだめて、上手くできているかは分かりませんが意欲を引き出したいといつも思っています。

未だに意欲を引き出す特効薬は見つかっていませんが、動物も落ち込むというのであれば人間の感情の浮き沈みが激しくても仕方ないですね。何とかそれに対応していきたいです。

でも、願わくば私が落ち込んでいるときに慰めてくれる人もほしいものです。
失礼しました。

2016年10月30日日曜日

ハロウィンスタンプラリー

三国まで行ってきました。
スタンプラリーのチェックポイントをやったわけですが、私たちに三国校はまだないので特設場を用意してもらってやりました。
その場所なんですけどね、微妙な感じになってしまいました。

というのも通常は三国地域のお店屋さんたちがチェックポイントになるので当然お店でやります。なので皆お店を探すわけです。
間借りしている私たちはと言うと、クリーニング屋さんの前の駐車場を借りてやっていました。
どっからどう見てもクリーニング屋さんです。
誰も塾のチェックポイントだとは思いません。

加えて芯学塾は三国地区にないため、その名前に聞き覚えのある人もいません。かなり探すのに苦労された方もいたようです。申し訳ない。

やっと見つけてくれた人たちも、まずクリーニング屋さんの看板に目を留めてしまうので、若干混乱の様子。申し訳ない。

そんなこんなで宣伝効果は皆無だったと思いますが、まあ良いです。
一応100人以上は私たちのチェックポイントにたどり着いてくれたので役目は果たしたでしょう。子供たちも楽しそうにまわっていたので目的は達成でしょう。

後は、いつの日かこの中から生徒さんになってくれる子が出ることを、宝くじが当たるぐらい低い確率で期待して待ってます。

2016年10月28日金曜日

明日は久々の表舞台?

三国でハロウィンスタンプラリーに参加します。
塾の地域と全く違いますがやります。
実際、三国から来てくれている生徒さんもいるので無駄ではないと信じて宣伝します。

でも、明日は子供たちに楽しんでもらいたいです。

2016年9月21日水曜日

オリンピック、ホスト国の役目

リオ五輪が終わりましたね。ライブではなかなか見れませんでしたが良かったです。

次は4年後に東京五輪が待っています。
久々の日本開催で沸いていましたが、ホスト国が浮かれていてはいけません。

自国開催の大会では通常より良い結果が期待されるように思います。オリンピックだと多くのメダルが期待されます。
でも、それって少し変じゃないですか?

実際に自国で行われる大会は選手にとってメリットの多いものだと思います。だから期待も高まるのでしょうが、開催地の有利不利が結果に大きく影響するというのは如何なものかという気もしてしまいます。
完全に公平なんてことは出来ないのでしょうから仕方なくはあると思うのですが、ホスト国としてはメダルの数をどうこう言うより、外国からくるゲストが気持ちよく戦える大会を目指すべきだと思います

それを勘違いして結果だけにこだわると、いつぞやのアジア大会のように空調をいじってバドの試合を妨害、なんてことになってしまうのです。まあ、普通そこまでしないにしても自国選手に有利になるようにという意識が不公平を生んでしまいかねないのです。
それが絶対に駄目なことかといわれると正直分かりませんが、私は公平な状況で戦い勝つことこそがスポーツの面白さだと思っています。

4年後、東京五輪が終わったときに外国から訪れた選手たちに「日本でのオリンピックはどの国でやるよりも気持ちよく戦えた」といってもらえることこそがホスト国の金メダルなのだと思います。

なんてね。

2016年5月11日水曜日

好きな科目、嫌いな科目

私が生徒さんによく聞くことの1つに好きな科目と嫌いな科目の話題があります。得意科目と不得意科目と言い換えても実際はあまり違いがないことが多いですが、本当はちょっと意味が違うのでこのように聞きます。

「どの科目が好き?得意でなくてもいいんだよ」

そうすると色々な答えが返ってきます。
よく悩んだ挙句に
「給食!」
と元気に答えてくれた子は大物だったのかもしれません。
他にも音楽や体育などの答えも返ってくるので条件をつけて「5教科でお願い」というとしぶしぶ数学だったり英語だったりが返ってくることもあります。私自身は理数が好きだったのでそんな話をしながらあわせて
「じゃあ嫌いな科目は?」
と続けます。この質問には多くの子がサッと答えてくれます。本当に嫌いなのがよく伝わってきてちょっと心配です。

でも大事なのはここからです。さらに続けて
「なんで?」
と聞くと嫌いな科目の理由は驚くことに多くの生徒さんが同じことを言います。

「科目の先生が嫌いだから」

もちろん覚えるのが苦手とか興味がないという理由も出てきますが、それだけでは終わらず上記の答えがセットになっていることが多いです。
そして好きな理由でも「科目の先生が面白いから」といった答えはしばしば聞かれます。

これはとても恐ろしいことだといつも思います。
勉強の中身でなくそれを指導する人が嫌いだという事でその科目も嫌いになってしまうのです。
決して学校の先生の悪口を言いたい訳ではありません。実際に同じ授業を受けても良し悪しの感じ方は人それぞれですから。ただ考えなくてはいけないのは教える側の影響力です。
一概には言えませんが、やはり嫌いな科目は成績が伸びづらい傾向にあると思います。出来なくてもいいので嫌いにならないでほしいというのが私の思いです。

ですから私が授業をするときに意識していることの1つは私が嫌われないことです。上手く出来ているかは分かりませんし、こういう言い方だとただ媚びているように聞こえなくもないので誤解されないか心配ですがそういう訳ではありません。注意すべきことは注意しますし、厳しく指導することもあります。ただ、合間に雑談をする事とその科目のどこが面白いか余談を入れるようにしています。私自身や科目自体に興味をもってもらうかとが狙いです。

塾としてやるからには成績を上げることは絶対条件です。
ですが私の願いとしては私の影響でその科目が好きだという生徒さんが1人でも出来ることです。なかなか道は険しいですがこの仕事を選んだ以上諦めたくないですね。

2016年4月27日水曜日

「どうすれば出来るのか考えろ!」

会社員時代に上司から言われた言葉です。

「出来ない理由は聞いていない、どうすれば出来るのか考えろ!」

仕事をしていく上では同じことばかりやっていれば良いという訳ではありません。新しいことをしていかないと生き残りは難しくなっていきます。しかし新しいことには困難が付き物だという難点があります。
困難に際して人は消極的になりがちだと思います。つい出来ない理由をあげつらって、結局新しいことははじめないというのはよくある話だと思います。

そんなときに上記の言葉です。とても前向きで希望に満ちています。止める事を考えるのではなく、進む事だけ考えるのです。
私はこの言葉に感動しませんでした。

捻くれ者で御免なさい。
でもどうしても納得できないのです。
だって、どうしたって出来ないことや出来ない方がいいことだってあると思うんです。

例えば某自動車会社では達成不可能な燃費性能の実現を業務命令にされました。でも出来ないとは言えないので偽装しました。
例えば某国では勝ち目のない戦争を回避するための議論が行われました。ですが途中からどうすれば会戦できるかに議論がすり替わって、結果惨敗しました。
(上記の例は個人的見解です。悪意はありませんのでご了承ください)

「どうすれば出来るのか考える」というのはとても大切だと思います。ですが、そのときにはマイナス要因も考慮には入れることがもっと大切だと思います。盲目的に進むのではなく止まる勇気と進む勇気を併せ持ち、現状を冷静に判断するという事こそが大切なのです。

イケイケ上司に振り回された過去を思い出しながら、自分は冷静に判断できる人になれたのか、ただ消極的な人になっただけなのか自問しています。

2016年4月13日水曜日

人生で一番褒められたこと

もうだいぶ前のことになりますが、弟が結婚しました。
当然結婚式をするわけですが、我が家は父がすでに他界しているので私と母の2人が一番近い親族として出席することになります。
本来ならば気楽な兄の立場でいられたのかも知れませんが、今回は父親のするはずだった役割が回ってきてしまいました。

それは、親族代表の挨拶です。

私はこういう場合は新婦側のお父さんがするものだと勝手に思っていたのですが違いました。
新婦側からの気遣いだったのでしょうが私にご指名が・・・
寝耳に水とはこのことです。
弟の方が先に結婚するという場で未婚の未熟な兄にそんな役が回ってくるとは思いもしませんでした。
人前で話すなど全然得意でない私としては遠慮したい気持ち山々だったのですが、「出来ません」とはさすがに言えずやることに。

やると決まったからにはきちんとやりたいものです。ネットで一般的な挨拶の例文を探して幾つかを読み、それを元に自分用のスピーチ原稿を作成しました。余裕を持ってやればいいのに、やっぱりギリギリで式の前々日に原稿完成です。式は東京で行われるため前日入り、車椅子の祖母を連れて行くという大役もあり覚える時間がありません。原稿はメールでスマホに移していたので空き時間にこまめにチェック、しかし暗記は大の苦手で大苦戦。当日は式の合間にお酌に回りながら未だにスマホで原稿チェック、覚えたんだかどうなんだか状態でいよいよ本番です。

意外と落ち着いて出来た、というのが感想です。
ただ上手く出来たかといわれると内容も含めて自信はありませんでした。実際、予定していた内容を1行飛ばしてしまったし・・・
でもそれなりに歳をとったためか、塾の仕事で話す機会が多かったためか悪くはなかったと思いました。
一応の役目を果たしたことで私の出番は終わりです。「終わった、苦情は受け付けません!」そんな気分でした。

ところがその後です。
親族として披露宴の参列者を見送る際に多くの人が「スピーチ良かったです」と賞賛してくれるではありませんか。

「今日のスピーチの中で一番よかったです」
「良かったです。そういった仕事されてるのですか?」
「感動しました」

はじめはお世辞だと分かっていたつもりなのですが、あまりに多くの人が褒めてくれるので「本当に良かったのかも?」と思いはじめてしまいました。親戚からも「そういう仕事がむいてるんじゃないか?」と褒められ、弟の友達の中に私のスピーチで泣いている人がいたとか、2次会でも褒められまくった(弟談)とか良い情報ばかり入ってきます。
ここまでくると今度は疑心暗鬼になってしまう悪い性格が顔を出します。よっぽど出来ない子だと思われていたのだろうか?なんて。

しかしまあ、ただ一つ言えることは、私の人生の中で一番褒められた出来事だったということです。

そして褒められて悪い気はしません。
生徒さんもそれは同じでしょう。
どうしても勉強では間違いや悪いところを直すことが多くなり、ある意味注意ばかりすることになります。本当はそんなときこそ良いところを見つけてあげて褒めるのが大事なのだと改めて思いました。これからはより気をつけていきます。


なお、どうも私はスピーチが上手いらしいので講演依頼お待ちしております。(冗談です)

2016年3月30日水曜日

当塾にマニュアルはありません!

「マニュアル人間になるな」などという言葉を聞いたことのある人は多くいると思いますが、マニュアルというものは悪いものなのでしょうか?
私は違うと思います。
過去にはバイトも含めて幾つかの仕事をしてきましたが、毎回はじめての時は何をしていいものやらサッパリ分かりません。まさに右も左も分からないという状態だと思います。業界の当たり前は決して一般の当たり前ではないのだから当然だと思うのですが、意外とそのことに気付いてもらえなくて上手く仕事ができず注意されるなんてこともよくあります。
こんなとき、マニュアルのしっかりしているところは仕事がしやすいです。はじめは意味も分からずマニュアルにしたがって仕事をします。そうすると取り敢えずの形はできてきます。そのうちにその意味が分かってきて自分なりの工夫や改善ができてきます。導入にマニュアルを使うことは効果的なのです。
ですが当塾にマニュアルはありません。

そもそも塾におけるマニュアルというのはどういう意味か?これには2つの意味があります。

1つ目は講師にとってのマニュアルです。
それはいわゆる指導マニュアルというやつです。大手学習塾ではそういったものもあるようですが、私が以前目にしたものはとても役に立つとは言えないものでした。一斉授業ならまだしも個別指導となると難しいようで、どこかには凄く良い物もあるのかも知れませんがまだ見たことはありません。
というのも個別指導では1人をしっかり見ます。しっかり見るとどの生徒さんもみんな違います。性格はもちろんのこと過去の学習状況、現在の意欲、家庭環境などなど同じ生徒さんはいません。そうなってくると教え方も当然違ってくる必要があります。みんな違うからマニュアル化することが難しいのです。
当塾でも学習における大枠の方針と理想はあります。ですがそれだけで指導できるものではありません。基本方針をベースに毎回1人ひとりに合わせたやり方をその都度考えていきます。なので同じ問題でも生徒さんによって解き方が違うなんてこともでてきます。
これは同じ学校で同じ学年の生徒さんでも同じ授業ができないという事で、講師にとっては大変です。ですが個別指導の価値はここにあると信じています。まあ、そもそも同じことで済むのならば個別指導なんていりませんから。
ちなみに当塾に指導マニュアルはありませんが、指導方法の意見交換は毎日のようにしています。授業前や後にどんな状況でどんな方法を取ったのか、これからどうするのかを話し合います。白熱すると帰れなくなってしまうのが悩みどころです。
いつの日にかは私たちが得た知見をまさにマニュアルとしてまとめられたら良いな、と思いますが道は遠そうです。

次に2つ目は生徒さんにとってのマニュアルです。
これは参考書や問題集などの教材を指します。もし完璧な教材があれば塾になんか行かずそれを自分でやっていればいいのですが、前述の通り1人ひとりが違うのでピッタリ合うものにはまず出会えません。
当塾では教材を指導するための道具と考えています。なのでこれも生徒さんによって違うものを使ってもらいます。どれを使ってもらうか選ぶのも大切な仕事なのですが、なかなか思い描くものがなく毎回苦労します。
理想の教材も作ってみたいと思うのですが、やはり道は遠いです。


マニュアルはあると便利です。ですが複雑な内容において適切なそれを用意することはとても困難です。
文科省は学習指導要領を定めています。ですが全国の学校がどこも全く同じ指導をしているかというと違います。それで当然なのです。
決まりきったことをやるのではなく、常に良い方法を模索することこそ指導者の仕事だと考えます。
(などと偉そうに締めましたが、これは自分自身への戒めの言葉でした。つまり今回も独り言・・・)

2016年3月23日水曜日

私の友達 笠山君(仮名)編

前回友達の話をしたので、ついでに1人ご紹介です。

笠山君(仮名)と私は小学校からなのでもう数十年の付き合いになります。高校、大学、社会人と違うところだったのですが意外とちょこちょこ会っていた気がします。友達5人と福井から車で屋久島に行くなんて大学生らしい遊びもしましたが、それよりただ会ってウダウダするようなことの方が多かった気が?
お互いに漫画好きなことや同じ塾に通っていてその先生(ヴァーチャルノートの先生です)を気に入っていたことは大きな共通点といえるかもしれませんが、それ以外で何がそんなに合うのか改めて考えるとよく分かりません。でもこういうのが気が合うって事なんですかね?
ときどき福井に帰省してくると合間に会いにきます。私の優先順位は極めて低めですがマメに顔を出してくれるのは有難いです。でも合間なので変な時間なこともしばしばで、夜遅くに会うことも。そんなときはよく足羽山のお墓に出かけます。本当だったら一緒に会いにいっただろう塾の先生のお墓がそこにあるからです。そこに先生が居るとは思いませんが、何となく会いにいきそこで数時間話し込んだりします。深夜の墓場は静かで暗くて星が綺麗です。先生も星が好きな人で塾が終わったあと一緒に夜空を見上げて難しく楽しい話をしてくれました。笠山君(仮名)と話し込むにはうってつけの場所なのです。

そんな変なところで気の合う笠山君(仮名)ですが、彼はいわゆるエリートです。
現在彼はお医者さんです。奥さんもお医者さんでもうすぐ3人目のお子さんが生まれる予定です。なんとも憎たらし…羨ましいことです。

そしてお医者さんになるぐらいですから当然勉強が出来ました。本人曰く天才型ではなく努力型なのだそうですが優秀なことには変わりないのでしょう。
ですが私は知っています。彼がとてつもなく運転が下手だったことを。

大学生の頃です。私より遅くに運転免許を取得した彼と早速ドライブに行こうということになりました。私もまだ初心者でしたが彼より早い時期に取得していたので少し先輩気分です。「どれ技量をみてやろうか」なんてふざけた気分で出かけたのですが、予想を超えていました。
あまりに下手すぎて、とてもじゃないですが怖くて乗っていられないので数百メートル走行後に運転手交代となりました。
それでも運転なんて慣れですから時間と共に上手くなるものだと思っていたら、なかなかならないのです。運転練習に付き合ったこともありますが、一度なんかはほぼ赤信号無視のタイミングで交差点を突っ切ったことが…
「おい!」と彼を見ると強張った顔で「止まれん…」と一言だけ。直ぐに運転手交代です。危うく殺されかけました。
「一生車に若葉マークを付けておきたい」と当時もらしていました。

そんな笠山君(仮名)ですが長い月日が流れて今では普通に運転しております。しかしあんなに運転の上達が遅い人は他に知りません。

ここから学んだ教訓が2つ。
1つは、頭が良いからって何でも出来るわけではない。人には向き不向きがあるのです。逆に言えば勉強が不得意でも他人より優れた才能は他にあるかも知れないのです。
2つ目に、どんなに下手でも繰り返していればいつかは出来るようになる。あの下手だった彼が今では家族を乗せて遠方から帰郷します。昔のままであったなら自殺行為ですが、今では普通のことです。今できないからといって諦めず、練習し続ければいつかできる日はくるようです。

この話はときどき生徒さんにしています。不得意なことを悲観するなと励ましたり、繰り返し練習することが大切だと日々の学習の大切さを説くのに役立っております。

彼とのエピソードはまだまだ尽きませんが、ひとまずこんなところで。

ちなみに笠山君(仮名)ですが、もう直ぐ福井に家族で帰ってきます。
地元に友達の少ない私としては遊び相手が戻ってくることを楽しみにしています。年齢を重ねて色々と昔とは違うこともありますが、相変わらずウダウダやれたら楽しいです。

2016年3月17日木曜日

友達がもたらす功罪?

前回、友達の話をしていたらちょっと思い出すことがあったので書いてみます。


多くはありませんがいくらか私にも親しい友達はいます。その中でも一番よく一緒に飲み明かした友達が3人(もう1人いるのですが音信普通になりがちなので今回は割愛)います。
最近はみんな忙しく集まる機会はほとんどありませんが、みんなでバカやったことも数知れず。気楽に付き合える良い奴らです。ですがこの集まり、他人から見るとちょっと不思議なのだそうです。

どう不思議なのかと言うと私以外の3人がとても優秀だということです。社会人時代に出来た友達には「なぜその中にお前が入っているの?」と聞かれる始末。でも言われてみればそんな気がしないわけでもありません。

その3人はそれぞれ東大、京大、国立大医学部の出身です。そしてそれぞれ検事、SE、医者になりました。
ん~、学歴やらに無頓着の私でも改めてみると確かに凄いと感じます。
そしてその中で私だけが普通の人、変といえば変かも?

彼らとは小学校からの付き合いなのであまりそういうことは意識してきませんでした。加えて彼らがそういったことで私を差別したり、自慢したりした記憶もありません。だから私には何の違和感もありませんし、一緒にいて楽しい仲間です。楽しいのだからそれで充分なのですが、それは他人には見えないものなので不思議に思うのなのですかね?

たぶんお互いが楽しいから続いているのだと思いますがこの友達関係、よくよく考えてみると功罪があったようにも思います。
功の部分、学歴や地位に怯えない、気にしない。罪の部分、劣等感。

もともと両親が学歴や地位に無頓着な人たちだったという事もありますが、この友達が一つも威張らなかったというのも大きな影響のように思います。
子供の頃から偉そうにされたことはありません。それでも優秀な奴らなのでしょう、何でもないときに凄さを感じることはありました。
そういった経験からか私は「凄い人は凄そうにしない(偉い人は偉そうにしない)」と思うようになっていました。なので偉そうにしている人を見ると「小者?」と思ってしまいます。私の中でこれは良かった事だと思います。

ただ、何でもないときに感じる凄さというものは自分の駄目さを感じるときでもあります。同じように遊んでいた友達が急に「勝てない相手」に見える瞬間を何度も経験すると自分がとても駄目な人間に思えてきます。実際に大物ではないのだから仕方が無いのですが、そこから生まれたのは劣等感のようです。
「劣等感」と言いましたがその正体に気づくのには時間が掛かりました。偉そうにされなかったので鈍い私は直接優劣として感じるのではなく、何となく自分には追いつけないような敗北感というか身の程を知るというか曖昧なモヤモヤがあるだけで、それが明確に何なのか分からなかったのです。でもそのモヤモヤはちょこちょこ私の邪魔をします。何か分からないから余計に扱いづらいモノでした。それが劣等感なのだと気づいたときは変な話ですが正体が分かって安心したように記憶しています。
身の程を知るのは大切ですが、萎縮しているばかりでは仕方ありません。これが悪かったことでしょうか。

しかしそれも考えようですかね。劣等感のおかげであまり他人に偉そうにすることが出来ません。だって恥ずかしいですから。「偉くない人ほど偉そうにする」と私は思っているので、私なんかが一番危ないタイプなわけです。たまに失敗もしますが、劣等感は良いストッパーかも知れません。

でもまあ本当のところは功罪など考えず、友達関係は楽しいということが一番でいいように思います。
高めあえる仲間、利害関係のある仲間、色々あるのでしょうが、難しい事いわず気楽にいられる場所であっていいと思うのです。
そういう意味で色々ありますが、私は良い友達を持っているのでしょう。

そんなこんなで、結局のところどうオチをつけるかと言うと
「友達っていいね!」
という綺麗な(?)結論に無理矢理しておきます。
毎度与太話に付き合ってくれる方、いたらありがとうございます。

2016年3月12日土曜日

受験が終われば別れの季節?

当塾における今年の受験は無事に終わりを告げました。少人数の塾なので結果については触れないことにしますが、まあ無事に終わったのです。塾としては年末よりも1年が終わったと感じるのがこの時期です。
そして受験が終わるともう残すは卒業式だけです。卒業式だけというと言い過ぎですが、やはり大きなイベントなので意識してしまいます。
そしてそれは期待と不安の時期でもあると思います。

生徒さんと話をしていると色々な期待や不安があるようですが、友達についての不安を口にする子も少なくはありません。卒業したら離れ離れと感じているのかも知れません。そして思い出してみると私の不安はその点が大きかったように思います。

もともと前に出て行くタイプではない私は友達を積極的に増やしていくことが苦手でした。そのため自慢ではありませんが友達の数はあまり多くありません。その貴重な友達が卒業と共に失われていくような不安を感じていました。

今思えば私の世界は狭かったのだと思います。意識していたわけではないですが、中高生ぐらいの頃の私にとって世界は学校までで終わっていたように思います。だから違う学校になるということは世界が分かれてしまうことと同じで、関わりあうことはなくなるような不安を持っていたのでしょう。

でも現実は違いました。

多くはありませんが親しい友達はいくらかいます。そして不思議なことに一番親しく付き合っている友達の多くは小中学校からの友達です。

高校、大学、就職とその多くが別々の地域だったのですが不思議と未だに続いています。今も福井在住は少なくて会う機会などほとんどないのですが帰省した際には声がかかり、いい歳になったというのに昔のように朝まで飲み明すなんてバカな事をすることも。

どうも私の考えていた別世界は思いのほか近くて、ちょっと手を伸ばすだけで直ぐに届く距離だったようです。


春は別れの季節、なんてことも言いますがそんなに心配しなくて大丈夫です。確かに「今」という状況は変わってしまいますが、人と人の今生の別れなんてそうそうないものです。
世界は広がるだけで分かれたりはしないようです。少し世界が広がる春、少しいといわず自分の力で思いっ切り広げちゃってください。そして期待していきましょう!
(なんて偉そうに言っていますが、私の世界はまだそんなに広くないような?頑張らねば。)

2016年3月3日木曜日

警告表示の不思議

最近はクレームを恐れてか様々な場面で過剰な警告表示がされているように思います。
粘土に「これは食べ物ではありません」とか、刃物に「指を切らないように注意してください」とか、街頭インタビューに「個人の感想です」とか要るのか要らないのか分からない不思議なものが多くあります。
色々と面白いものはありますが、中でも特に面白かったが昔アルバイトしていたピザ屋さんで見たものです。

そこでは大量の小麦粉を使って生地を作る作業がありました。まずは大きな容器に入れて機械でこねるます。それを後から小分けに手で成型します。
小麦粉は1回に1袋10kgの業務用を使います。毎回重たい袋を抱えてこぼさない様に入れるのは少し大変でした。業務用の素っ気ないパッケージに意識を留めることもなく作業していたのですが、あるとき中央に書かれた文字に気づいてしまいました。
そこには
「この製品には小麦粉が含まれている場合があります」
という警告表示が・・・。

ハンバーグとかカレーとか加工食品に書かれているなら理解できます。私のような料理オンチには何で出来ているか分からない物も多くありますから。でもこれは前述の通り中身全部が小麦粉です。なのにも係わらず小麦粉の含有を可能性レベルで表現した警告は不似合いでしょう?だってこの表現だと「基本的に小麦粉は入っていないけど稀に含まれることがあるので注意してね」に感じませんか?

アレルギーの問題があるので本来この表示は大切なものです。だからこそいかがなものかと思います。
でもまあこれで実害を受ける人はいなさそうなので面白かったで良いんですけどね。

私の国語力も自慢できるほどのものではないので笑われないよう気をつけます。

2016年2月25日木曜日

きちんと失敗することが大事なようです

先日、面白いニュースが入ってきました。
ねずみによる迷路の実験において初期段階で多くの失敗をしたねずみの方が成績の伸びが良いというものです。
詳しくはニュース記事を探してもらうとして、私が気になったのは「多くの失敗」という点です。これは言い換えると「色々な失敗」ということになるようで、それは試行錯誤しているということのようです。

自分を振り返ると思い当たる節があります。
失敗というのは嫌なもので、私の場合は失敗しても思い切った失敗はあまり出来ないほうでした。

大昔の話になりますが、まだパソコンがそんなに普及していないころに学校でパソコンの授業がありました。はじめて触れるに近い私はどうにも緊張してしまいました。自由に触っていいといわれても安全な範囲のことだけ試して、思い切った操作など出来ずにほどほどの失敗どまりです。結局のところこの授業から得るものはほとんどなく、ただ言われるがままに操作して言われるがままの結果を得てそれが何なのかよく分からず仕舞いでした。
今思えば教師がしっかり居るわけですから大胆なことをしても本当に困った事態にはならず、その状況を楽しむべきだったと思います。
そうやって振り返ると予想外のトラブルを起こしていた友達は優秀な子が多かったような?

どんな場面でも失敗を恐れず挑戦を!、とは言えませんが学習においてはきちんと失敗した方がいいように感じます。

「色々な失敗」ということは「同じ失敗は繰り返さない」という事でもあります。それはただ失敗して終わりではなく、何故失敗したのか?どう改善するのか?それらをきちんと考えるという事です。まさに勉強です。

当塾では失敗することを怒ったりしません。ただし、何も考えていない失敗は注意します。
一所懸命考える子は時々私の予想を超える面白い失敗をすることがあります。そのときは逆に褒めます。もちろん失敗なのできちんと直しますが、内心ではその発想に感心してしまうこともあります。

失敗しても良いが同じ失敗を繰り返さない。
正しく失敗できる場を作っていくことも大切な仕事なのだと考えさせられました。

2016年1月31日日曜日

「願掛け」として献血を

明日は福井の私立高校の入試が一斉に行われる日です。そして1ヶ月すると県立高校の入試です。
我が塾の生徒さんにも受験する子はいるわけで、どんなに大丈夫だと思っていても心配はつきません。

ということで今回は「願掛け」として献血に行くことにしました。

元々「願掛け」といった類のことは全く信じていない偏屈な私でして急に気が変わったというわけでもないのですが、誰も損をするわけではないのでやってみてもいいかという気分になった次第です。その程度の気持ちでは効果などないのかも知れませんが「情けは人の為ならず」とも言いますし、良いことしたら良いことが帰ってきそうな気がしないでもないとも思わなくはないです。

いつもは平日の塾へ行く前に献血センターに寄っていくのですが、受験前のこの時期は忙しくて行く余裕がありませんでした。ですが調べてみると今週は土日にエルパ(ショッピングセンター)で臨時献血センターが開かれるということで普段はやっていない日曜日に行くことにしました。いつもの調子で行ったのですが、なめてました…

行ってビックリ、大混雑です。普段は問診やら全て含めても30分ほどですむのですが、今回は結果的に申し込んでから採血が終わるまで2時間ほどかかりました。採決自体は15分ほどですので圧倒的に待ち時間の方が長いことになります。職員の方は恐縮されていましたが、みんな文句も言わず大人しく待ち続けています。「日本人も捨てたものじゃないな」なんてことを偉そうに思った次第です。

まあそんなこんなで無事「願掛け」はしてきました。
ちなみに私が願ったことは「みんなが合格しますように」ではありません。もちろんみんなに合格してほしいわけですが、そういう願い方は何となく違う気がします。
なので私が願ったのは「みんながきちんと実力を発揮出来ますように」です。

受験は他人との競争です。相手がいるものですから、頑張ったからといって必ず上手くいくとは限りません。
だからこそ、どんな結果になったとしても努力したことが本番できちんと発揮出来たと思えることが大事だと考えます。

どうかみんなが出し切ったと思える入試でありますように。

2016年1月14日木曜日

新年お年玉クイズ 2016年版(解答編)

待ってくれている方がどれだけいるかは分かりませんが、一応解答編です。何のことか分からない方がいましたら1つ前の記事を読んでみてください。

しかし一応問題のおさらいです。
「1+2+・・・+62+63=?」

内容はとてもシンプルで手間を考えなければ順番に足していけばいいだけです。
なので生徒さんの中には一所懸命やってきてくれた子もいました。「電卓でやりました」という子もいて、確かに電卓禁止という条件はないのでそれもありですね。

ですがこの問題の面白さはそこではありません。何か楽に出来る方法はないかと考えることが面白さだと思います。ということで解答例を。

まずはΣ(シグマ)を使う方法でしょう。高校生ならば暗記しているであろうこの公式を使えば一発で解けます。すぐにこれを思い出せた方はきちんと高校数学をやった人ではないですかね。ブログでは数式が書きにくいのですが、

n
Σ k = 1/2 × n × (n + 1)
k=1

つまりn=63となり
1/2 × 63 × ( 63 + 1 ) = 2016

簡単に出来ましたがちょっと味気ない気が。それにこれは小中学生では無理ですから我が塾の解答としてはイマイチかと思います。
ということで次です。

私が一番お勧めなのはガウス計算の考え方ですね。という事で解法です。
1~63までを2回足します。そのときに一方は逆の順番から足していき、積み算にします。

   63+62+・・・+ 2+ 1
+)  1+ 2+・・・+62+63
______________________
   64+64+・・・+64+64

上記のように64の足し算が63個出来上がる訳です。そしてそれは本来計算したい量の2倍になっているので

64×63÷2=2016

簡単に出来ました。その上、最終的に出来上がった式はシグマを使ったものと同じになりました。面白いですね。

このやり方のお勧めな点は余分なものを加えて後で除くという事です。
主に中学までの数学はそこにあるものを何とかする、ということが中心です。そういう意味で必要ないものを自分で勝手に加えて計算を楽にするという発想はかなりの飛躍だと考えます。
実際この説明をしてひどく感心してくれた生徒さんもいました。これが数学の面白さだと伝わっていたら嬉しいですね。


ちなみに生徒さんの中には私の考え付かなかった発想をしてくれた子もいました。
その子はこの計算を図形的に捉えて考えてきました。
各項をピラミッドの様に上から積んでいき、それを台形と捉えて公式に当てはめて解くというものです。

      ○         ← 1個  ↑
     ○ ○        ←  2個
    ○ ○ ○       ←  3個
      ・               63段
      ・
      ・
○ ○ ○・・・○ ○ ○   ← 63個  ↓

こんなイメージです。
1つを1cmと捉えて台形の計算をするのだそうです。

(上底+下底)×高さ÷2
( 1  + 63 )× 63 ÷2 = 2016

長さと数量を混同することには少し違和感がありますが、それでもシグマと同じ計算式になりました。面白いです。
そしてこれを中学生が自分で考えてきたことにとても感心しました。

私はガウス計算を知っているのでそこで満足してしまい、結果として怠けていたようです。
「図形的に考える」というのが有効なことは知っていたはずなのに全く思いつきませんでした。私よりもこの生徒さんの方が柔軟な発想力を持っていたようで、身が引き締まります。


そんなこんなで今年のお年玉クイズはいかがでしたでしょうか?楽しんでもらえたら幸いです。
解法例などと幾つか示しましたが、まだまだ面白い考え方はあるのかも知れませんね。多少でもこれを機に思考する楽しさを知ってもらえればと思います。
(などと偉そうに締めて、多少良い話っぽくして終わります)

2016年1月7日木曜日

新年お年玉クイズ 2016年版

毎年恒例の新年お年玉クイズです。生徒さんたちに宛てた年賀状にクイズを載せて頑張ってくれた子にはお年玉(粗品)プレゼントという企画を今年も実施しました。恒例といってもまだ2回目なんですけどね。

まあそんなことはさて置き問題です。

「1から順に5まで足すと
 1+2+3+4+5=15
 となります。

 では1から順に63まで足すといくつになるでしょうか?
 1+2+・・・+62+63=?                         」

といった内容です。
もちろん頑張って足してもらえば答えは出るのですが、ちょっと大変です。
少しの工夫で簡単に解けるようになるので是非解き方を考えてみてください。

予断ですが問題を考えるコンセプトは小学生でも解けるけど高校生でも簡単すぎないことです。これって結構難しいんですよ。
まあ、この問題はシグマを知っていればあっさり解けてしまうので高校生には簡単すぎると言えなくもないですが、そこはただ公式を使うのではなくどう考えるかを考えてもらいたいです。
本当はそういうことを考えることが勉強の楽しさだと思うのですけどね、どうでしょう?

それでは次回解答例を紹介します。
見てくれている人がいたらお楽しみに。