2015年11月26日木曜日

保護者さんにとても喜ばれました

先日のことです。講師が柿を持ってきてくれました。家に生えている柿木から大量の柿が採れてあまっているからお裾分けという事です。本当に大量にあるようで、折角だから生徒さんたちにもあげようということになりました。

当塾は1対1で生徒さんを指導しており、帰りは当然1人ずつ送り出しているのでその送り出すときに柿を配っていきました。お迎えの生徒さんも多いので保護者さんに直接渡すことが多くなります。
塾で柿を配るという脈絡の無さに毎回自分たちが気恥ずかしく他意はないことを伝えながら皆さんに配りました。本当に他意はなくお裾分けの軽い気持ちだったのですが、思いのほか喜ばれてしまいました。いや、本当に反応が良かったんです。
柿の偉大さを知りました。

・・・

そして、もっと頑張ろうと思いました。

2015年11月18日水曜日

「ロケットスタート」に思うこと

「ロケットスタート」という表現はご存知でしょうか。多くの人が耳にしたことはあると思います。
私もテレビなどで時々聞きますがいつも違和感を感じてしまいます。正確に意味を調べたことはありませんが、使われる場面を見ていると出だしの早いことを表現しているようです。なんとなく気持ちは伝わるのですが、使っている人は本当のロケットのスタートを知っているのかと疑問に思ってしまいます。

はっきり言ってロケットのスタートは遅いのです。そして遅くなければいけないのです。
そもそもロケットは人や物を運ぶ輸送機です。ですから中の物をきちんと目的の場所に届けることが一番の使命なのです。
例えば衛星軌道に物を運ぶためには最終的に秒速8km弱の速さが必要です。これはかなり早いです。もし一瞬でこの速さに加速できるとしたら、そのGはとてつもなく中の人は死んでしまうでしょうし、物でも壊れる可能性は高くなります。それよりも根本的にあの巨体を一瞬でこの速さまで持っていくのは少し無理がありそうです。

大昔の名作に「月世界旅行」というジュール・ヴェルヌの作品があります。まだ空を飛ぶことさえままならなかった時代に書かれたSFです。この中では月まで行く手段として砲弾が使われています。大きな大砲で人を乗せた弾を打ち出します。砲弾にはエンジンなどついていない訳ですから打ち出した瞬間の力だけで第二宇宙速度(秒速11km強)まで達する必要があります。恐らく人は死んでしまうのではないでしょうか。この作品が時代的なものを含めて名作であることに変わりはありませんが、現在の常識では無理があります。

砲弾と違いロケットは燃料を燃やしながら進みます。つまり徐々に速度が上がるということです。

つまり出だしが早いことを形容するなら「弾丸スタート」の方があっているといえるのです。

でもまあ、雰囲気は伝わるようなので本当は細かいこと気にしなくても良いのですけれどね。
ただロケット好きとしてはちょっと言っておきたかったというだけの話でした。

2015年11月11日水曜日

乱れた日本語?

前回、「日本語の乱れを正す!」みたいな事を書きましたが、あれは冗談ですよ。念のため。
だいたいこの書き出しから分かる通り私の日本語も乱れております。他人にものを言える立場ではありません。それに加えて私は日本語の乱れに寛容です。

以前、お正月に日本語の成り立ちを紹介する特番がやっていました。さほど興味は無かったのですが、見始めたら面白くて2~3時間あった番組を最後まで見てしまいました。
それによると今に至る日本語の成り立ちはかなりいい加減なものだというのです。
残念ながら私の記憶力では詳しく説明できませんが、雰囲気で外国語を取り入れたり誤用が定着したりといったことが多々あって今に至るそうです。

例えば「素晴らしい」という言葉ですが、元々は悪い意味の言葉だったそうです。
むかしは平仮名で「すばらしい」と書き、成り立ちの似た言葉が「みすぼらしい」です。それがいつのときか「素晴らしい」という当て字が生まれ、その雰囲気から良い意味に変わってしまったというのです。
今では良い意味で定着しており、本来の意味を持ち出したところでほとんどの人には通じないのではないでしょうか。それでは、通じない「正しい意味」というのは本当に正しいと言えるのでしょうか?

言葉とは人と人が意思を伝える手段なのです。形にだけ拘る(「拘る」も元々は悪い意味を含んでいました)ことが大切なのではなく、柔軟に変化することこそが言葉に必要な能力のように思います。

そういう意味で「日本語」はとても素晴らしいと思っています。漢字、カタカナ、ひらがな、時にはアルファベットまで普通に混ぜて使い、外来語も簡単に受け入れる。新語や略語が次々生まれても案外すぐに馴染んでしまう。他の言語に詳しくはありませんが、かなり寛容な言葉な気がします。

そして寛容ということであれば、いわゆる「正しい日本語」を大切にしている人がいることも良い事なのだと思います。双方が常にゴチャゴチャと揉めながら進化していくことが正しいあり方なのではないかと考えます。

出来ることならば揉める余地があるように、「そんな日本語は駄目!」と直ぐに切り捨ててしまわず一考してみてはいかがでしょうか。その方がきっと面白いと思います。

まあ、偉そうに語ってしまいましたが私も若いとは言いづらい歳になり、最近の若者言葉に「ちょっと待て!」と思うことが増えてきてしまっているのですけれどね。

2015年11月5日木曜日

「謝罪したいと思います」という表現に思うこと

日本語の乱れを嘆く方も多い昨今ですが、私も気になることがあります。それがタイトルにある「謝罪したいと思います」とう表現です。色々な場面で耳にすることがあるのですが、よくよく考えるとおかしな言葉です。

まず「謝罪したい」という部分ですが、これは「○○する」という意思表示ではなく「○○したい」という願望ではないでしょうか。謝ることすら願望でしかないのです。
次に「思います」という部分です。「します」という宣言ではなく「思っている」という気持ちを表現しただけなのではないでしょうか。思うだけなのです。

つまり「謝罪したいと思います」の意味を考えると、「謝りたい願望はあるしそう思っているけど実際にするかは分かりません」と解釈できるのです。
類義語に「注意したいと思います」や「反省したいと思います」などがあります。どちらもするとは言っていません。したいと思っているだけなのです。

とても良く出来た言葉です。核心は何も言わずに振りだけ出来てしまうのです。わざとやっているのでしょうかね?

とか何とか偉そうに語ってしまいましたが、まあ揚げ足取りです。捻くれた私がそう感じてしまったというだけのお話です。
「どうか気を悪くしないでほしいと思います」